日本のJAZZの歴史

日本では、いつからJAZZの文化が誕生し、進化、発展してきたのかを今回は辿って行こうと思います。
戦前の日本にすでに渡ってきていた洋楽には、ジャズとタンゴがありました。初期のジャズ演奏家には、井田一郎1894〜1972)や波多野兄弟(東洋音楽学校卒)のハタノ・オーケストラがいた。井田は1923年に日本で初めてのプロのジャズバンドを神戸で結成した。宝塚少女歌劇団オーケストラ在籍時の仲間と組んだ「ラッフィング・スター・ジャズバンド」(「井田一郎とラッフィング・スターズ」)も存在した。井田は大正期から関西でジャズ活動をしていたが、1928年に自分のバンドを率いて東京に進出し、ジャズ・ブームを巻き起こした。同年ビクター専属となってからは、日本ビクター・ジャズバンドの名で数多くのレコードを録音した。1928年9月13日に録音された「アラビアの唄」はビクターでの初録音で、同年11月新譜。二村の歌唱とともに溌剌とした演奏だ。「れきおん」では同時期にニッポノホンでリリースされた二村定一・天野喜久代(歌)、レッド・ブリュー・クラブ・オーケストラの「アラビヤの唄」(1928年5月新譜)も聴くことができる。本格的に、日本人がジャズを取り入れたのは、1928年に、二村定一氏の「アラビアの唄」を歌ってからだと言われています。

1930年代

当時のレコード業界はポリドール(1927)、ビクター (1927)、コロムビア(1928)と外資系のメジャーレコード会社が設立された。関西トラストであるテイチクは、異業種参入組のキング(大日本雄弁会、即ち講談社)より更に遅い1934年だが、その年の12月に発売したディック・ミネの『ダイナ』がヒット。ダイナは最も多くカバーされた日本のジャズソングであり、榎本健一はパロディ・ヴァージョンでカバーした。その後、日本軍のアメリカへの敵対心によって、ジャズが禁止になってしまいます。さらに1940年10月31日限りで日本全国のダンスホールは一斉閉鎖された。また1943年1月にはジャズレコードの演奏禁止、更にレコードの自発的提出、「治安警察法第十六条」の適用による強制的回収などにより米英音楽の一掃を図ったが、北村栄治のように提出せずに自宅でこっそり聴いていた者もいた。最終的には役人に協力する音楽業界の人間が、日本音楽文化協会、いわゆる「音文」(音楽界の統制団体)の小委員会による軽音楽改革により、「ジャズの演奏は禁止」となった。こののちジャズメンの活動は各種の慰問団、対米謀略放送へシフトしていく。
ジャズメンとジャズ歌手の重要人物として、二村定一、服部良一、淡谷のり子、ディック・ミネ、志村道夫、南里文雄、堀内敬三、川畑文子、中野忠晴、ベティ・稲田、井田一郎、東松次郎、レイモンド・コンデらがいる。

1940年代

1945年8月昭和20年に日本は敗戦し、翌月の9月にはNHKもアメリカ音楽の放送を始め「ニュー・パシフィック・アワー」というタイトルで松本伸の率いる「ニューパシフィック楽団」が
テーマ曲「ドリーム」と共に登場しました。敗戦直後のバンドマンは戦時中、軍楽隊で鍛えられた人達等が多く、クラシックやマーチをたたき込まれた腕をジャズに切り替えて演奏を始めました。ジャズ音楽は、東京を中心に各地に設置された進駐軍キャンプや将校クラブでもさかに演奏されたのである。ジャズバンドも「渡辺弘とスター・ダスターズ」、「東松二郎とアズマニアンズ」、「南里文雄とホット・ペッパーズ」等のバンドが次々と活動し始めた。当時、占領軍の兵士たちは、ジャズも満足に聴いたことも無い者も多く、日本人のジャズ演奏によって本国で享受できなかったジャズ文化に酔いしれた。服部良一、笠置シヅ子、江利チエミ、ジョージ川口、ティーブ釜萢(ムッシュかまやつの父)、ナンシー・梅木、世良譲などのすぐれた歌手、演奏家などが出、ジャズが大衆化した。一時期は外国のポピュラー音楽(タンゴ、シャンソン、ハワイアン、ラテン、カントリー)をすべて「ジャズ」と呼ぶ風潮が広がったほどです。また、神戸や阪神間の学生を中心にデキシーランドジャズ・バンドが数多く生まれている。1949年スイングジャズ誌により第1回スイングコンサートが行われ、駐留軍のキャンプ中心だったジャズ演奏が若者達の耳には入る様になりはじめます。動画は渡辺弘とスター・ダスターズのボサ・ノバでキッスです。

1950年代

1950年2月の日劇におけるゲイ・セプテットショーを皮切りに各地でジャズ・コンサート「ジャズコン」が開かれ1952年~53年をピークに空前のジャズブームが起こりました。この年にコロンビア・レコードからポップス・レコード『L盤』が発売され、翌年にはビクターから『S盤』が発売され軽音楽が身近に聴くことが出きるようになりました。1951年講和条約締結と共にラジオ放送も民間放送(新日本放送、中部日本放送)が始まり、年々ディスク・ジョッキーが盛んになり、歌手達は、フランク・シナトラ、ドリス・デェイなどのヒット曲の日本語盤を発売しました。江利ちえみ「テネシー・ワルツ」雪村いづみ「思い出のワルツ」でデビューしたのもこの年でした。

最も大きな話題のひとつが戦後初の大物ジャズメンの来日公演でした。
1952年4月のジン・クルーパー・トリオが来日し、日劇やクラブで演奏しビクターのスタジオでレコードの吹き込みをしました。1953年11月にノーマン・グランツ率いるJ・A・T・P「ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニー」が来日しオープンカーで銀座をパレードしました。12月にはルイ・アーム・ストロング・オールスターズが来日しミュージシャン、フアンにも大きなインパクトを与えジャズ・ブームに拍車をかけました。この間に沢山のバンドが入り乱れながら芸能界の最も華やかなシーンを形成するまでに至り、渡辺晋(b)とシックス・レモンズ、与田輝雄(ts)とシックス・レモンズ、ジョージ川口とビッグ・フォーが3大バンドとなり彼等は信じられないほどの人気で、一大ジャズ・ブームを起こしました。動画は、映画「青春ジャズ娘」より

当時のアイドルだった彼等のギャラは途高く、売れっ子でしたので移動するのに札束を勘定している暇もなく、お札の高さで均等に四等分したと言うエピソードがあります。当時月に一人四・五十万円ものギャラを稼ぎ、当時の学卒公務員の給料が9千円程度で、普通のジャズメンの4~5倍のギャラを稼いでいたそうです。いかに彼等が人気があったかが伺いしれます。この年に「鈴懸けの途」でお馴染みの鈴木章治とリズム・エースも結成されています。ジャズ・ブームを盛り上げた、もう一つの要因が音楽映画があります。1954年1月に映画「グレンミラー物語」、1956年には「ベニーグッドマン物語」が公開され、スクリーンでハリー・ジェイムス、ジンクルーパー、ライオネル・ハンプトンなどの演奏を楽しむ事になり、本人も来日し、生でベー・グッドマン楽団の演奏を聴くことができました。1957年にはフランス映画がモダン・ジャズを映画音楽として使用し、多くのヌーベル・バーグ映画が評判になりました。ルイ・マル監督の「死刑台のエレベーター」マイルス・デビスが音楽を担当、ロジェ・ヴァディム監督の「大運河」でのジョン・ルイス作曲、モダン・ジャズ・カルテットの演奏、「殺られる」「危険な関係」のアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーの演奏、そして、1961年にはアートブレイキーとジャズ・メッセンジャーが来日し「モーニン」が大ヒットし「ファンキー・ブーム」となり、各地にモダン・ジャズを専門に聴かせる喫茶店が増え始めました。1956年に穐吉敏子が、1962年に渡辺貞夫がバークリー音楽院(現バークリー音楽大学)に留学。1963年には松本英彦がモントレー・ジャズ・フェスティバルに出演する等、国際的に活動するミュージシャンも増えていった。

1960年代

60年代の日本では、「ジャズ喫茶」が流行りました。お客さんがジャズを静かに鑑賞するための喫茶店です。日本のジャズは戦争により一時消滅する時期があり再び人気がでるのが1950年~1960年代。この間はあちこちにジャズ喫茶がありLPレコードやSPレコードをかけて美味しいコーヒーとともに大好きなジャズを聴くのがおしゃれでした。50年代はジャズのレコードは輸入盤がほとんどで値段が高く一般の人には手が出せないものばかりでした。そこで60年代のジャズ喫茶ではあらゆるジャズが鑑賞できるため高いお金を出してわざわざジャズのアルバムを買う必要がなかった点が魅力で流行した理由でもあります。ジャズ喫茶のなかには何万枚ものレコードを所蔵するお店もあり家にオーディオ機器がなくてもジャズ喫茶にいけば大好きなジャズが堪能でき、さらに家庭では使うことがない本格的なオーディオシステムを装備していたので音質が大変良かったことも流行した要因になります。渡辺貞夫日野皓正などのスタープレイヤーが輩出したのも60年代になります。1961年に発足、翌年改名したミュージシャンたちの勉強会 新世紀音楽研究所(改名前はジャズ・アカデミー)に集った高柳昌行、金井英人、富樫雅彦、日野皓正、菊地雅章、山下洋輔らが、毎週金曜日に銀巴里でジャムセッションを行った。日野皓正は、そこが自身のフリー志向の原点だと述べている。

1960年代、70年代から日本でもフリー・ジャズが盛んになってくる。日本のフリー・ジャズの先駆者となったのは、阿部薫、高柳昌行らである。1970年代後半になるとフュージョン・ブームとなり、渡辺貞夫らもフュージョン・アルバムを出すほどだった。中央線沿線を拠点とするミュージシャンも多く登場し、1980年代後半、新星堂のプロデューサーが続に中央線ジャズという言葉を提唱した。21世紀に入ってからも、HZETTRIO、山中千尋、矢野沙織、寺久保エレナ、上原ひろみ、国府弘子、西山瞳、菊地成孔、小曽根真らが活躍している。